記憶-Filament

otomojamjam2005-12-16

今日は千駄ヶ谷のloop-lineでFilamentのライブ。
オープニングアクトの吉村光弘によるマイクロフォンフィードバック、すごい面白かった。ちょっとアルビン・ルシエと一緒にツアーしたときの彼の演奏を思い出しました。若い逸材沢山いるなあ。
そうそう、今日は半年振りにわれ等が超マイナー・サイトimprovised music from japanの鈴木美幸とも会う。美幸さんてどんな女性ですかってよく聞かれるのですが「みゆき」じゃなくて「よしゆき」しかも1959年生まれ。 あはは、残念でしょ! でも、ま、それはさておき、半年もあってなかったのは、苦しい経営で彼が引きこもっていたから。でも、元気に「金が無い」「これからも絶対に売れないCDしか、オレはださないぞ〜」を連発するレーベルオーナーを見て、ちょっと安心しました。
でもさ、鈴木さん、少しは売りましょうよ。ね。
みなさーん、彼のページの通販、ものすごいCD沢山あります。タワーやアマゾンもいいですが、ぜひぜひディープな品揃えの彼のところでも買ってやってくださ〜い。ちなみに、わたしのCDに関しては、世界中で一番ここがそろっています。
http://www.japanimprov.com/japanese/index.html
http://www.japanimprov.com/cdshop/search.cgi?file=A.yotomo


今日のFilamentのライブについて、わたしがとっても信頼している耳と知性を持ったMさんのブログに面白いことがかいてあったので、無断になりますが、抜粋させてください。

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(前略)最近は彼のどんな音楽も「記憶」という概念が前提にされていることを考えています。逆にいうと、「記憶」へのスポットライトのあてかたの違いが、彼の多様な音楽に結びついているようなのです。


 彼の率いるオーケストラによる新作「OUT TO LUNCH」も、エリック・ドルフィーではなく、エリック・ドルフィーを聴いた「記憶」をカバーしていると言っていいと思います。
 「記憶」というキーワードを思いついたのは、このアルバムの最後の曲(恐ろしく濃密な曲です)を聴きながら、思い当たるふしがあり、記憶を辿って、1999年に発売された「糸」というユニットのために書かれた「極小の記憶No.2」という曲を取り出したときです。


「極小の記憶No.2」を聴きなおしても、曲想自体はあまり似ていませんでしたが、この曲は、演奏者による自らの楽器の「記憶」を元にして構成されていて、その(記憶ー音楽)の構図が「OUT TO LUNCH」とそっくりなのです。


 眠くなってきたので話を端折ります。


 中村八大のカバーアルバム「See You In A Dream」のように「記憶」が非常に甘い形で立ち現れることもありますが、もっと厳しい形で「記憶」を問われることもあります。


 大友良英さんの関わる音楽で一番好きなFilamentは、音楽ではなくて、音そのものの記憶を取り扱った音楽を試みているユニットだと思います。
 いわゆる普通の「音楽」とは別の場所にも記憶がストックされる、比喩的に書くなら耳自体がごくわずかに持っている「記憶」領域、そんな「記憶」で構成された音楽です。
 その瞬間、その瞬間を経ていくうちに、自分の聴覚が旧来の「音楽」から離れ、いつのまにか大きく変化していることに気付くような感覚があります。


本当に眠くなってきたので話をもっと端折ります。


 今日、ひさしぶりに、Filamentを聞いて、このユニットの音がまったく古びていないどころか、更に高度になっていることを知りました。
 千駄ヶ谷から代々木の自室までの帰り道も、歩くたびに深いよろこびで体が満たされるようでした。いまも、思い出すと、ため息が出てしまいます。それくらいいいライブでした。今年はこれでコンサートおさめかな。
 おやすみなさい。

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特にFilamentに関する記述は自分でも気づいていなかった。でもそうなのかもしれない。そのへんのこと、リーダーでもあるSachiko Mはどう考えているのだろうか。通常、ぼくらは、そういうことより、もう少し技術的な側面のことしか話さない。
いずれにしろMさんのような人に音楽を聴いてもらえるってのは、本当に幸せなことだ。


Mさん ありがとう。


おやすみなさい。