副島輝人さんのこと
前衛ジャズ評論家でありオーガナイザー、プロデューサーの副島輝人さんの訃報。
初めてお会いしたのは78年高校時代。福島のジャズ喫茶「パスタン」でのメールスジャズフェスの8mm映画上映会と報告会の席だった。
より親しくなった切っ掛けは84年の高柳昌行・副島輝人の北海道ツアーに運転手兼アシスタントとして同行したとき。
以来言葉では表せないくらいお世話になりつづけました。
今の自分があるのは副島さんのおかげです。
ありがとうございました!
「日本フリージャズ史」「世界フリージャズ記」の二冊は、生前、過去のことを文章に残すよりは今起こってることが面白いんだと言っていた副島輝人さんが、それでもあえて残した渾身の本。
ぜひ読んでほしいなあ。
特に「日本フリージャズ史」はその執筆の過程で、自分のことだけではなく高柳さんのことでも沢山取材を受けた思いで深い本。
大友くんが黙っているのはいいけど、事実は事実なんだからと、当時高柳さんのことについてはほとんど公言してこなかった私の口から様々な話を聞き出してくれた。
実際にはその多くの部分は副島さんもご存知のことだっかもしれないが、私の口から聞きたかったこともあったのだと思う。わたしとの関係については大部分は本に書かれることはなかったけど、それでも高柳さんの項目の音楽的な部分では、わたしから聞き出したこともふんだんに書かれている。長い副島さんとのおつきあいの中でも最も濃厚な会話がかわされたのはこの時だったと思う。
副島さんとの会話は、公に出来ない話も含め本当に面白かったけど、DOMMUNEでやった副島輝人さんとのJAMJAM TV2回分は、そんな空気がそのまま出ている番組だった。
再放送出来るといいなあ。
実際かなりオフレコ的な証言もあったんじゃないかな。
60年代から70年代までの初期日本のフリージャズについての貴重な証言になっているはず。
そのまま本したいくらいの内容だったと思う。
そういえば、オレがなにかで、ごちゃごちゃと悩んでいたときだったかな、副島さんが自分の経験を話しつつ、「そんなもんは捨て置け、どうせ消えていくから」って言ったのが忘れられない。長く続けてきた人間にしか言えない言葉ってのがあるのだ。以来「捨て置け」はオレの心の中のおまじまいの言葉。困ったとき、理不尽なことが起こった時に副島さんの顔とともにこの言葉を思いだす。
京都に来たらJAMJAMラジオで何週にもわたって副島さんの大特集をやりましょう・・・などどめちゃくちゃ呑気なまったく空気の読めないメールを先月出してしまったのが最後になってしまった。
でもこの勝手な約束は年内に果たさせてください。
あの世でも喧噪やノイズの場所を見つけ出して嬉しそうにしているんじゃなかろうかって思うと「安らかに」って言葉は副島さんに拒否されそうな気がする。でも、ずっと戦って来た先輩にあえて「安らかに」という言葉を送らせてください。
どうか安らかに。
オレはあの世までとどくような音を出しつづけます。