ユリイカ ポストノイズ特集
今日は沼田順や佐々木暁とONJOのジャケ打ち合わせ。
帰りに学生の食べるような定食が無性に食いたくなってわざわざ代々木駅でおりて、80年代代々木方面某所にギターを習いに行ってた頃に皆で帰りに良く行った定食屋Pでハンバーグひれかつ定食。おいおい、お前本当にギターの勉強してたんかーーという突っ込みはいれないように。これでも頑張ったんだけど、上手くならなくて挫折したのよ。まさか20年後にギターソロを出すなんて思ってもみなかった。ところでギターソロ、おかげさまでおおかたの大して売れないという予想を裏切って初回プレスほぼ完売、今追加プレスしています。わ〜い、これで生活安泰! といきたい所ですが、へへへ、完売っていっても800枚ですから。僕等のCD、特にソロとか即興のものは、いつも500〜1000枚プレスが普通で、これを1年とか2年で売り切って終了・・・ってパターンなんです。CDは野菜じゃないんだから、いつでも買える・・・って思うと大違いで、DIWとかTZADIKのように継続してしっかり出し続けてくれるところ以外は、なかなかそうはいきません。今回はレーベルの沼田くんがよくやってくれてる・・・ってことなんだと思います。彼、会社やめて、退職金全部レーベルにつぎ込んでるわけですから・・・。
ところで、久々の定食屋昔は学生ばかりだったけど、今はおっさんが多い。あはは、こういうの若い子は食べないのね。ハンバーグとんかつ定食、なつかしい味だけど、あとで胸焼け。あ〜あ、こういう時に体力の低下を感じる。
さて、今日は移動中に雑誌「ユリイカ」のポストノイズ特集読みました。まずは予想に反して、結構面白い特集になってると思います。秋田昌美、Atuo対談、よかったなあ。秋田さんの発言は、もうさすがってかんじで、なんでもそうですが後追いではなく、ある音楽を作った本人ってのは、当たり前だけど、本物だな〜って感心します。特にこの部分。「いまや誰でもノイズ、ノイズという時代になって、もうなんの力も持たなくなったし、僕は自分の音楽はもはやノイズだとは意識しなくなりましたね」この深い意味わかりますか?
佐々木敦さんが青山真治のまだ発表前の新作について書いていて、ここでもノイズについての彼でしか書けないようなことが書かれています。この文章、数年前に出た「テクノイズマテリアリズム」の続編にあたる内容で、まだ青山さんの映画は見ていませんが、ものすごく興味深かった、彼の書くことはいつもわたしにとって羅針盤のような役目をしてくれます。
テクノイズについてはなるちゃんと大谷くんの本が出て以降、若い子から質問を受けるときに、楽器で出す楽音以外の意図せぬ音・・・みたいな解釈で使われることが多くて、その安易さに辟易としているのですが、なるチャンの本ではそんな安易なこと言ってないですからよく読んでください。いずれにしろこの用語はそうした限定した使い方をするために佐々木さんは使ってるわけではないのは、原本を読めば隅々に書いているわけで、このことの先にあることを、ここでは書いています。畠中実さんの文章にもそれに関わることが出ていて、このへんの問題は単に楽音どうこうの話ではなく、音響と呼ばれる音楽が出てきて以降の根本的な問題だと思っています。
その意味で興味深かったのは澤井妙冶。わたしは勉強不足でこの人については、実は全然知らないのですが、「手塚治虫が想像していたような、もっと21世紀らしい音」という、なんだかまったく期待できなさそうなタイトルと、学校の先生みたいな書き出しの文体で、最初は飛ばして読もうかとすら思ったのですが、よくよく読んでみると「記憶」と「音楽認識」に関するものすごく興味深いことが書かれています。菊地成孔、大谷能生、大友の鼎談の中で、わたしは「iPOD」の音がきたなくて耐えられない・・・という話を持ち出すのですが、私自身もこの音の良し悪しは、この場合、議論の本質ではないかと思い、途中でその話をやめて、むしろアーカイビングの話になってしまうのですが、澤井さんの文章を読むと、なぜわたしが「iPOD」の音の駄目さにひっかっかたのかが良くわかります。実はこの音の良し悪しの問題こそが、わたしの音楽の本質に関わる問題で、この話をなるちゃんとちゃんとやれば、両者の間の根本的な立ち位置の差もみえてきて、もっと面白い鼎談になったのに・・・と反省しています。要は個人の脳内の「記憶」を照合することでなりたつ音楽しかないわけではない、ということです。アーカイビングの問題とともに、今を考えるにあたり、もっと記憶と音色のことをつっこめば鼎談はもっと深くなったなあと後悔しきり。
こう書くと、いやどうせ人間なんだから、なんであれ記憶を参照するしかないじゃないか・・・という反論がきそうですが、それははっきり違う、そう思ってます。このへんのことは、いまはまだちゃんとは書けませんが、杉本拓が今現在やろうとしていることや、SachikoMがソロやFilamentでやろうとしていること、あるいはベルクソンとかアフォーダンスとかに関わるオレには本当に理解するのが難しい認識やら記憶の問題にも絡んでくることだと思うのですが、少なくとも音楽には、個人個人の脳の記憶を参照することで成り立つ従来の音楽とは別の音楽の可能性があると思っていて、それはかつてノイズだったり、あるいはオフサイトなんかの音響系のミュージシャンがやってきたこととすごい関係があるとオレは思っているのです。脳内にある個々人の記憶(自分探しをしてしまったり、癒されたりするようなことに関係ある記憶)ではなくて、外部との関係のなかで、たとえば物質的な振動と耳の関係のようなものの中から見えてくる認識(身体論みたいな話ではなく)のほうが、わたしにとっては興味あるところで、本当は「ポスト・ノイズ」という、なにを言いたいのいまいちはっきりしないネーミングの特集をやるのなら、そこのところをもっと突っ込むべきじゃ・・・と読んでいて思いました。
いずれにしろこんなことを考えさせられるいくつかの文章に出合っただけでも、特集としては素晴らしいと思います。でも、やはり不満もある内容ではありました。第一に非常に面白くないのは、わたし達の鼎談のところに大きく出ているCDの写真達です。こういう特集なのになぜ今活動してないONJQの旧作CDの写真が2枚とジャズのコンピがでているだけなんだろう? 大谷くんがプロデュースしているCDはなぜ出てないんだろう? これじゃオレ、ジャズしかやってないミュージシャンみたいじゃないですか。第一今回の鼎談の内容とずれる。ポストノイズだってのに、なぜFilamantBOXの写真にしてくれないのかなあ? せめてCathodeやAnodeの写真ならまだわかるんだけど・・・。このCDのチョイスに編集者のわたしに対する認識が、しいてはノイズということに対する認識の程度が象徴的にあらわれているな・・・とも思ってしまうわけです。前にも書いたけどFilamnentBOXのこと抜きでポストノイズなんて言っていいのと、中原昌也こそポストノイズを身を削って体現している存在じゃないのと・・・佐々木さん以外でそのことには触れられていないし、オフサイトのことや杉本拓をもっと正面から取り上げるいい機会だったんじゃないの・・・と、あるいはノイズを始めた人たちのことについてはまったく触れなくていいの・・・とか、ついつい文句を言いたくなるんだけど。ラップトップミュージックについてのこともずいぶん出てきてますが、これについては・・・う〜〜〜〜ん、もう少しちゃんと考えてから書きます。かなり微妙な感じがするんだけどね。宇波拓がマッティンのことを書いている文章と大谷くんの文章がこれについては一番納得がいきました。だったらもっと本質的な今のノイズの問題をとえいあげてもよかったんじゃ・・・とまあ不満もありつつも、でも、読む価値はあるぞ・・・と思う特集でもありました。編集部の方、厳しいこと書いて、ごめんなさい。ついつい僕等の世代はユリイカというと期待してしまうからなんでしょうねえ。音楽雑誌だったらこんな文句絶対に言いません。ってことで編集部の皆様、ご苦労様。文句もいったけど、でも、勉強にもなっております。雑誌ですからそれでいいんだとも思います。皆が納得する雑誌なんて、かえって変ですから。
今日もひきつづき家でONJOの編集作業、今はオーネットコールマンの曲を編集中、といっても切ったり張ったりではなく、基本はほぼ演奏したままで、あとはCDとして音を2チャンネルにする場合の音のテクスチャーとか、始まりと終わりのつけ方とか、そういうことをやっております。