帰国してから

otomojamjam2005-06-05

ゆっくり書こうとおもったのだけど、本屋にいってみたらもう次の号だった。例のミュージックマガジンの先月号のレコ評の件だ。といっても自分のCDのことではない。菊地成孔のCDのほうだ。

これについては、そんなわけで今手元に雑誌がないから、細かいことは書けない。ただひとつだけ、とっても気になっていることがあって、そのことだけひとこと言いたい。
あの評の中に、本誌ではピアソラやバルビエリは評価しない・・・という趣旨のことが書かれていて、その意図の背景についてかんがえると、わたしはとても嫌な気持ちになったのだ。あそこに書かれていたのは西洋の白人に評価されるような軸で音楽をつくっているピアソラもバルビエリも評価できないということだと思うのだが、この発言の背景には、まずはアルゼンチンの音楽はこうあるべき・・・という筆者(あるいは本誌と称するもの)の思惑がなければああいう発言は出ないと思う。第一の問題は、音楽を民族や国家の単位で見て、それをステレオタイプ化しなければ、こういう発言はでてこない点にある。個々人のかかえる背景や歴史よりも、たとえば「アルゼンチン人」という単位を前に押し出して、そこからおしはかって音楽の評価をするということに、わたしはものすごい抵抗をおぼえるし、そもそも欧州の白人に受けるような音楽をアルゼンチンの人間がやるということの、いったいどこが悪いのかさっぱりわからない。それに欧州というこれもきわめておおざっぱな単位で、ある集団の嗜好を語ることもおおきな問題だと思う。ある時代に規定された、たとえば民族なり国家といった人間の集団のありかたそのものに、大きな疑問と時に嫌悪すらもって音楽を作っているわたしにしてみれば、そうした前提への疑問もなしに、いきなり音楽を批評したり考えたりする前提に、民族とか国家の単位を持ってくるというのは、とても嫌だし、恐ろしいことだと思っている。

爆弾は反戦運動家を避けて落ちるわけではない。
これ、たしか太平洋戦争中に日本国内で反戦運動をしていた人の言葉だ。なんで、こんな言葉をいきなり出したかというと、ある民族なり国家といった集団を均一のものとして見るというのは、こういうことだと思うからだ。イラクは気にいらないから爆弾を落とす、アメリカはファックだから飛行機でビルにつっこむ。どの発想にも個々人の歴史も考え方の相違もまったく考慮されていない。そういう発想がものごとを考える土台になること自体に、わたしは抵抗したいと思っている。