P-Houseでいろいろ考える

otomojamjam2005-08-16

昨夜のP-Houseの「モ ュレ シ ン」と「オ トモ シヒ ギ ー ロ」。奇跡の様な素晴らしいライブでした。こんなすごいこと、人生の中でもそうそうあるもんじゃない。12日の「オ トモ シヒ ビ  ク ンオー ス ラ」のときもそうですが、この場所というか飴屋さんの展示のもつオーラというか緊張感のようなものが、自然と演奏にも作用したのだと思います。
石川高の笙とSachiko Mのサイン波が、ここまでものすごい効果をもたらすなんて。本当に素晴らしかった。自分が作った曲なんてことは、とうにどこかに消えていて、わたしは、この素晴らしい音楽を本当に楽しみました。今日は急遽思い立って宇波拓さんに録音をお願いしたのですが、たとえ録音で再現が不可能な音であっても録音しておいて良かったって思いました。そのくらい、今日の2人の演奏は、わたしが今までかかわってきたあらゆる音楽の中でも、最高のものでした。


実は、オープン初日にもこれと同じすごいことが起こっていたはずです。でも、聴こうという意思の無い人たちの前では、あるいは聴くという状況ができてない場所では、どんなものすごい音だってまったく無力ってことだと思うんです。こんな素晴らしい音楽ですら聴こうという意思のない集団を黙らせることなんて出来ない。そういう状況ではない場所では機能しにくい。でも、それでいいんだと思います。音楽はそのくらい無力であるべきです。これって、ほぼ暴力の前で人間は無力である・・・というのに等しいと思うのです。どんなに素晴らしい音楽があっても暴力や戦争はまったくなくならないように。もっと言っちゃえば、多分わたしは、もし暴力を止められるような音楽があったとしたら、そういう音楽は嫌いなんです。暴力を止められるような音楽は暴力を呼ぶことだって出来ると思うからです。結局は演奏する側、なにかを発信する側が世界を変えるのには限界があるというか、受け取る側に、受け取ろうという積極的な「意思」が無い限りは、どんなものだって届かない。逆に意思の無い人たちをも動かしてしまうようなものは危険ではないか。わたしはココロの底からそう思っています。

その上で、というかだからこそ、わたしは聴きに来る人たちを信じたいと思っています。今回、いろいろ無理を通して、この再演をお願いしたのは、聴きにくる人たちを信じたかったからです。だから今日の音楽が素晴らしかったとしたら、聴きに来てくれた人たちや、そういう状況をつくってくれた人たちの力、協力によるものです。
会場に最初からあるエレベーターの音や、いったいどこから聞こえるのかわからない不思議な通奏音・・・。そんな僕等の意思とは関係ない音を受け入れながら、素晴らしい場が成立していたと思います。


そうそう、ささやかな、おなじく「君が代」の伴奏のみをモチーフにしたわたしのギターソロと2つのメトロノームによる作品も、実は結構気に入ってます。これもあの場のなにかが無ければ成り立たない、不思議なバランスの上に成り立つ作品だと思います。



飴屋さんはとうとう18日間も箱の中にはいったままです。行くごとに僕の感情は言い難いゆれ方をします。なにか深刻なだけではなく、やっぱりちょっと「おちゃめ」な感じもあるんですよね。うまくいえないけど。あと7日。元気で帰ってきてください。9月にはいったら美味いもん食べにいきましょうね。


明日からはちょっと仕事で山奥にいかねばなりません。大自然も山も慣れてないので、体がもつかどうか心配ですが、ま、無理せずに頑張ります。ネットがつながるかどうか、もしつながらなくても18日には復帰します。



20日は北海道ライジングサンにONJOで出演します。北海道のみなさん。会場でお会いしましょう。