知的障害者とのワークショップ
今日は、神戸大学の大学院生たちが主催するワークショップを見に神戸へ。主に知的障害者たちが参加する音楽のワークショップだ。来年このワークショップの何回かはわたしがリーダーを務めなくてはならない。これまで、知的障害者と呼ばれる人たちとの接点のまったくなかったわたしは、とりあえず、どういうワークショップがおこなわれているのか様子だけでも見ておきたかった。
う〜〜〜ん。
これは、そうそう簡単にできるもんじゃないなあ。
ワークショップ終了後、主催の人たちや、ボランティア参加の人たち、指導をしている人たちとディスカッション。
自由に音を出し合って、それで楽しくなったり、ココロがかよい合えば、それが音楽に聴こえるんです。それでいいじゃないですが・・・と主張する人がいる。この方は音楽療法の専門家の方だ。
音楽療法のセッションの現場でそういうことがおこるのはわかるような気がするし、そうやっていくことの重要さもよくわかる。でも、わたしは音楽療法士ではないし、そもそも共演者を治療しようなどという意図で参加できないし、ワークショップでそんなことをする気もない。いつもだって、共演者とココロをかよわせるのが目的で音楽をやっているわけではない。それに、そういうことが目的なら、わざわざオレが参加する必要もない。彼等がオレを呼ぶ以上、もっと違う目的があるはずだ。じゃ、それはなに? 「?」マークだらけだ。それに、そもそも自由って? だいたい音楽に聴こえるってのは、だれにとっての話なんだろうか?
全体で起こっている現象を注意深く聴けば、それがやっている側には音楽のつもりがなくても音楽として聴こえる・・・という意見もでた。
でも、そういう聴き方ができるのは、相当高次元な態度で音楽に接してきているひとだけではないだろうか。たとえば今日はワークショップ中に、子供と大人が皿を投げあうたのしそうな遊びのような場面が起こったんだけど、それを普通は音楽というふうには聴かない。かなりいろんな聴き方をしてきているつもりのわたしでも、それを音楽だ・・・という風には聴かないし、聴こえない。そもそもそうやって聴く理由もない。遊びは遊び、それ以上でも以下でもなく、それでいいではないか。じゃなぜ音楽にしたがるのか? そういうことなら、空調や人の歩く音のほうがよっぽど音楽的にわたしには聴こえるし、実際そういうことを自分はやってきているわけで、別に発音元が知的障害者である必要なんてないだろう。 音楽を発見するのは聴き手のチカラだってことをいいたいなら空調で充分って話だ。 じゃ、彼等を音を出すマテリアルとして見ろ・・・ということだろうか? まさか、そんな失礼なことではあるまい。
確かに、わたしはこれまで、プロフェッショナルのミュージシャンに対して、音を出すマテリアルのそうな存在として振舞うような曲を書いたりしている。でも、それは演奏するがわとわたしとの双方同意の上だからなりたつ話しだ。知的障害者とそういう同意が得られるかどうか、わたしにはわからないし、得たとして、彼等にとって、自分にとってどういう意味があるのかもよくわからない。
この試みから新しい音楽が生まれるのではないか・・・。
これは主催者の意見。「新しい音楽」って言葉はオレもついついよく使ってしまう。でも、だれにとっての新しさなのか? だれとってそれが必要なのか? 参加している知的障害者は、本当にそういうことを求めているのだろうか? オレの音楽に彼等はひつようなのか? たとえば、彼等にスポットライトをあててパフォーマンスをしてもらうとする。面白いことをする人もいるはずだ。それをこれまでの音楽の歴史の文脈で「新しい」と言ってしまうことは可能かもしれない。でもそれにどんな意味があるのか? 自分の考える歴史設定に置いて、どうこうモノをいうのは、たとえば欧州の人たちが「アメリカ大陸を発見した」といってしまう傲慢さに良く似ていないか? アメリカ大陸は先住民達によってとっくの昔に発見されている。
と、まあ、初めて接する状況に、質問だらけになってしまい、主催者をこまらせてしまったかもしれない。なんだが、気軽にひきうけたけど、実はめんどうくさいことに顔をつっこんでしまったような気もする。半端な良い人面はしたくねえもんなあ。もう少し主催者とディスカッションを重ねて、双方のコンセンサスがとれなくては、オレがここでやれることも見えてこない。
もしかすると、どうコミュニケーションしていいかわからない知的障害者を前に、オレはびびっているだけかもしれない。だって、どう接していいのか見当もつかない。この、びびりは、たとえば、素人の演奏スキルの低い人たちにワークショップをするときにも多少はあるびびりでもある。こういうことを克服していくことって、音楽を本業としているオレにとって、なにか意味があるのだろうか。 そこから、このことを考えていこうと思っている。