久々なんで長文(告知つき)

otomojamjam2006-06-20

飴屋法水さんのミクシーのブログから6月3日のPITINNでのわたしのソロについて書いたものを転載。長くなるけどすごくいいことが書いてあるので後半をそのまま。

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(前文略)
もうすでに長文なので、特に際立っていたギター2台のフィードバックのことのみ書いておく。
すざまじく面白かった。


2台のギターという道具、2台のスピーカーという装置、2つの耳、そして、演奏者と視聴者という2つの存在、それらの中間に派生する何か、としか言いようのない・・・しかし同時にそれは演奏だった。


フィードバックによるモジュレーションなので、わずか10センチ頭の位置をずらしても、聞こえる音が驚くほど異なる。ということは、この会場の全員が、ただいま、極端に異なる音を聞きつづけている。さらに自分で頭をずらすことで音がものすごく変わるので、ほとんど自分が奏者になり、自分の頭骨に音を勝手に響かせることができる。


砂場で遊ぶ子供の気分だ。


しかし、じゃあ大友さんは、僕らが遊べる砂場/音場を、場としてポンと提供しているのかというと、それも違う。


そこには時間というものがあり、大友さんは大友さんで、ギター、スピーカー、両耳、あるいは楽器と視聴者、そのそれぞれの中間の位置で、自分が最善と思える変化や流れを意図もし、選択し、生産している。


自分と観客の個々の聞いてる音が、まったく異なる、であろうにもかかわらず、響きの発生の主体責任のポジションをとり続けている・・・・・・。


ここには、表現とか作品とか、それを聞くとか見る、という作業のすべてに横たわる問題が、きわめて明確に存在している。


誰もが異なるものを聞いているということ。演奏者と観客も、観客のそれぞれも、決して何も共有などしてはいないということ。


(中略)

共有できない?ディスコミュニケーション??
あたりまえだ。そんなものは大前提とした上で、ニヒリズムをひけらかすことも無く・・ある意味ではすべてが「誤解」でしかないことを前提にしながら、他者を求めること。


そこでできうるのは不完全な伝達、不完全な共有、不完全な同化でしかない。しかし不完全だからこそ、支配や依存や洗脳から、かろうじて自分をずらすことができる。主体責任がぎりぎり自分に残り続ける。つまり、自由、というものがそこにはある。


そこで何かを「共有」するということは、「主体的にかかわる権利」のようなものを「場」として共有する行動のみを指すのだろう。


フィードバックという・・いわば主体が極端に曖昧になる奏法を通して、操作すること、意図すること、つまりは演奏主体であることを、大友さんは限界まで回避しながらも、ぎりぎりのところで、それでも演奏の主体であることを選んでいる。そのことを、僕は、やはりぎりぎりのところで視聴者、としかいいようのない立場で選んでいるのだと思う。


信用と言うのは、相互理解の発生責任を相手に委ねることではない。いわば相互誤解を前提とし、理解の主体責任を絶えず自分にとどめ続けながら、それでも相手を必要とするということだろう。


そのような意味で、僕は大友さんという人のことを、信用している。

2006年6月4日

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以下はわたしの文章。この文章がスイッチになって、なんだかいろんなことを考えたので、そのことを少々。


無責任に聞こえるかも知れないけれど、これだけ日記や文章を書いているくせに、実は自分のやっている演奏なり音楽を説明できるのか・・・と問われると、出来ない。説明すればするほど、音楽が遠ざかってしまうような気がするし、書こうとするとかんじんなことが抜け落ちて、まるで嘘をついているような気にすらなることもある。それでも時には、自分の音楽の構造やそれを作るに至るプロセスや動機を書くことはある。そういう具体的なことの説明ならできる。でも、そもそもその音楽が何なのかは、まったく書けない。だからわたしが日記に書いてあるのは、言葉こそそこまでストレートじゃいにしろ要約すれば、「楽しかった」とか「満足」とか、あるいは「次はこうしよう」とか「いまいちだったかな」とかいったような要は素朴な感想か、「ぜひ来て下さい」って宣伝か、じゃなければ具体的な作業の方法や作品を考える過程くらい。本当のところ、その音楽がなんなのかは自分では全然説明出来ない。



だからこそ・・・と言ってもいいように思うが、わたしにとって、自分の出した音が、他人の耳と記憶を通過したそそのあとに出てくる言葉に、それがたとえどんなものであれ、ある切実さのようなものを感じている。多分それは音楽というものが演奏する側(自分)だけでは半分以下でしかないのと関係している。僕等が音楽と呼ぶものは、演奏する人だけでは成り立たなくて、それを聴く人、あるいはその音で踊る人、聴きながら食事をする人、お祭りのような宗教儀式の一環としてその音を浴びている人、iPODで聴いている人・・・要するにその音を受け取る者と、さらに、そうした両者の関係をなりたたせる場、あるいはメディアのようなものとの共犯関係のことなのだ。



小学生のころに深夜ラジオやテレビでヒットチャートを聴き、中学生や高校生になってロックやフリージャズに興味をもったわたしは、最初からメディアと批評のようなものが大きな役目をもつ種類の音楽の現場に聴き手としていたように思う。そうしたものの総体が多分好きだった。単に音楽だけでなく、自分で作ったラジオから流れてくる、大好きな深夜放送のDJの●●がチョイスした○○という曲が好きになる・・・といった具合に。単に音だけではなく、それが届けられるまでの香りみたいなものにも魅せられていたのだ。


後にフリージャズに夢中になった時も、間章高柳昌行の発するアジテーションのような文章に、どれだけ魅力と反発を感じたことか。彼らの文章からにじみ出る独特の世界と、小さなジャズ喫茶の現場で実際に演奏される風景や匂い、薄暗い光やらコーヒー香り・・・といったようなもの全てに魅せられた結果のフリーだったのかもしれない。だから、こと自分にとっての音楽を考えるときは、単に音響現象だけが問題なのではなく、ある音響現象が、どういう場と関わり、どういうふうにその場で響き、それが各人の記憶の中でいったいなにを形成していくのかってことが気になる。気になるけど、そこまでひろげて考えてしまうと、誰にもその音楽の総体なんて見ることも聴くこともできない。それぞれが違う人生をいきている以上、同じ音響現象でもそこに関わった人の数だけの音楽があるはずで、ある音響だけをとりだして絶対的な価値なり見方を示せるようなものではない・・・そう思っている。だから総体を知ることは、最初からあきらめている。



これは、私自身が作品をつくるときに、完璧なものとか、完成したものつくろうとすることに強い抵抗を感じる原因でもあると思う。自分自身が考える完璧さとか完成などというものを信じられない・・・というのもあるけれど、そういうことだけではなく、そもそも完璧なものって発想自体が間違っているというか、非常に危険な思想だと思うからだ。なぜ危険かといえば、そこには自分と対等の他者がいることが勘定にはいっていないというか、要は何かを支配したいという発想がもとになっているからだ。支配なんてしたくもされたくもない。
これはたとえばエレベーターのようにはっきりと完成した像が想定されているものを作るときの態度を言っているのではない。人の命を預かる実用的な機械のようなものは絶対に完璧を目指すべきだと思う。そうではなく、わたしの考えている音楽のような、最初からある完成形が想定されていないもの、アートなどと呼ばれているいわゆる実用の品ではないものを作るときの私個人の態度の話。わたしが個人的に自分の作品をつくるときに求めているのは実用品のような完璧さではなく、多分ある種の思慮のようなものと同時に礼節のようなもの、そして隙(遊び)のようなもの・・・なんだと思う。「思う」と書いたのは、実はこのへんは自分でも確信ないから。ただそういったものが欠如した作品は息苦しかったり、下品に感じたりして好きになれないのも事実で、そういうものは自分では作りたくないなと思ってしまう。いつもうまくいくわけではないけど。 ってか失敗だらけかな。 ま、そんなことを飴屋さんが書く「相互誤解」や「主体責任」の話から漠然と考えたりね。




最近はほぼリアルタイムでその日のライブを文章にしたものがネット上で複数読める。雑誌に文章を発表できるような立場の人だけではなく、誰かもわからないない人たちの文章がその日のうちに読める。20世紀にはなかった現象。演奏の現場だけが場ではなくて、その日の晩、とっくに音がどこかに消えてしまった後、みなが帰宅した深夜、ネット上に様々な人たちの体や脳を通過した音楽の破片が言葉となって放射されるデジタルの空間。 コンピュータや携帯とそれをクリックするバラバラの個々人が顔も見ずに形成する場。でてきた文章自体も、まるで音楽のように、数日もしたら別の膨大な量の文章の前に意識の外に、あるいはアーカイブの森に消えてしまうような、そんなはかないヴァーチャルな場。

ふと気づくと自分自身もそういう場に身を置いている。まるで70年代にジャズ喫茶にいたときと同じように、そこに行くのが日課にすらなっている。実際に体を運んで、人の顔をみながら情報が行きかっていたときと、よく似てもいるし、でもどこか大きく違う世界。最近は、ここも立派な現場だと思うようになってきた。現場は一ヶ所じゃない。複数の現場がからみあって、個々人がまったく異なる現実を認識している。




すごく長くなったけど、飴屋さんの文章を読んでそんなまとまりのないことをつらつらと考えていた。もしかしたら自分のつくる音楽も、そうした今現在の場に呼応したものになってきているのかもしれない。確かに2台のギターのフィードバックの作品は、その場にいる全員が、単に感覚の問題ではなくはっきと物理的にも違う音を聴いている。この四半世紀に画期的な進歩を遂げたPAが、なるべく広い範囲に、なるべく良質な音質で同じ音を届ける(結果的に巨大な音になる)ことを目標に突き進んできたこととはまったく別のベクトルを持った作品。


でも、これも自分で解析しようとすると、なんだか違うような気もする。やはり自分で言葉にしてしまうと自家中毒のようになる気がしてならない。音楽は無論自分自身の記憶やスキルを通過して生まれるわけだが、でも、それはやっぱり全体の半分以下でしかないってことをこういうとき骨身に染みて感じる。自分で自分の解説は出来ない。




オレは演奏する。それを誰かが聴く。その中の誰かがネット上に文章を書く。それを、ライブに来た人、来ない人、そしてわたし自身が読む。そしてそれにまた反応が起こる。文章で反応する人もいれば、わたしだったらもしかしたら次のライブになにかが反映することもある。



時として作品のでた数年後に反応があることもある。今本屋の店頭にでている「新潮7月号」の中で椹木野衣さんが、ラジオドラマをテーマに非常に興味深い文章を書いていて、ここで90年代の後半に作った作品「ミイラになるまで」が取り上げられている。実はこの10年近く前の作品、今の耳で聴いてみると、のちにCathodeなんかの作品に向かう傾向がはっきり見て取れる。ああ、オレもうここで、実ははじめていたんだ・・・なんて思う作品でもある。でも、多分椹木さんの論考はそういう視点ではなさそうだ。まだこの論考は途中で終わっていて、実のところこの先椹木さんがなにを書こうとしているのか、現時点ではまだ私には見えてない。でも、非常に興味深いところをついていて、かつ、そのことが昨年飴屋さんがやり、わたしもからんだ展示「バ  ング  ント展」と、寺山修司オーソン・ウェルズのラジオドラマとの関連で書かれている。まだよくはわからないけど、もしかしたら自分自身のこの先の作業のなかで、なにかすごく大切な視点を提示してくれるような予感もするし、もしかしたらそういうことではないけど、自分が気づいていない何かを書いてくれるのかもしれない。だからこの論考がどう展開していくのか、次号も楽しみにしている。



久々に今日は考えたりものを書く時間があったんでついつい長くなっちゃった。ここまで読んだ人、なんの結論もなくてごめんなさい。