吉村光弘への返信

otomojamjam2007-07-30

言おうかどうしようかまよったけど、やはり書こう。


ユリイカの吉村光弘さんの文章とそのブログになんだかひっかかっている。「徹底的な他者=外部」などというあまりに観念的すぎて、わたしには全然意味のわからない言葉で批評が行われていること、ものすごく疑問というか、正直な感情を言えばそういう紋切り型の批評が復活してきていて、読み手がそういうものに免疫がないのだとしたらとても怖いことだと思っている。というのは、そういうことに疑問を感じずに彼の文章を杉本拓の非常に注意深く書かれた文章と同列に語ってる風情のブログをいくつか見つけたからだ。「徹底的な他者=外部」なんて今のところわたしは出会ったことすらないし、今後も戦争でもおこらないかぎり出会うことはないだろう。そんな究極の注釈なしには使うことが出来ないような紋切り型の言葉をいきなり使っていいのだろうか? 別に「徹底的な他者=外部」のような極端な言葉の使い方の揚げ足をとっているわけではなく、そういういいまわしがあの批評の基底にあることが気になっている。ユリイカの彼の文章を読んでまず思ったのはそのことだけど、ああ、やっぱりと思ったのは彼のブログでユリイカのことを書いたこの文章。

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まだ全部に目を通したわけではないが、大友さんと親しい人による文章が多い。お手紙というか、私信みたいなもの。少なくとも私の読みたい「批評」はなかった。

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吉村さんがどう思おうが自由で、そのことへの文句はまったくない。ただ誰もが読む場所にそれを書く場合はそれなりの責任は生じると思っている。ましてや、ユリイカに文章を書いた当事者のブログであってみれば、それはただの感想をネット上で書いてるものと同列ではないとわたしは思う。なぜなら、それは著者本人の自身の文章への注釈の意味ももつからだ。
まず、わたしだったら全部読んでいなければ、こんなことは書けない。彼がユリイカの批評の中で言っているように膨大な量のわたしの仕事を聴けない・・・というのならそれはわかる。物理的に不可能だし、批評をするために全部聴く必要もない。でも、たかだか1冊の本、それを全部読んでないと言っておきながら、いきなり「少なくとも私の読みたい「批評」はなかった」と断言してしまうのはどうか。「読む気がしなかった」と書くなら別にいいと思うけど、「少なくとも私の読みたい「批評」はなかった」などと読んでもいないのに断言・・・そういう方法で他人を切ってしまっていいの? もしかしてこの人は不誠実な人なのではないか、そういう感想をわたしはこの文章で抱いてしまった。
「徹底的な他者=外部」のようななんの検証を経てない言葉をいきなりつかってしまうこととそれはよく似ているように思う。そもそも吉村くんがいうほど音響がそんな「徹底的な他者=外部」みたいな特権的な位置にあるだろか? 



批評というのは必ずしも批評の形をしているわけではない。私信の形をとっていようと、公の雑誌に公表している以上、それは単なる私信ではない。その中から興味深い批評はいくらでも読み取れる。今回のユリイカでいえば、おそらくどの文章よりも、自分自身の立ち居地や、自分自身の傷口をさらしながら(血を流しながら)大友評をしてるのは吉田アミの文章だと思う。語り口も内容も違うけど杉本拓の批評も、わたしのことを書いているけれど、あそこで誰よりも血を流してるのは杉本本人にわたしには思えます。わたしは彼等、彼女等のその誠実さに打たれます。吉村くんが学ぶべきはそこではないですか?


わたしは吉村くんの書いた批評が間違ってるなどというつもりでこれをかいてるのではなない。ある部分はあっていると思っている。でも、その内容の正しさどうこうの問題ではなく、まず気になったのは彼のそうした言葉に対するマナーの未熟さで、それは書かれた本人にしてみれば気分がわるい、そういう話でもあります。


その上で、内容についてひとつだけ反論させてもらう。これは杉本拓の文章にもかかわってくる内容でもある。
わたしは共演者を「素材」として「引用」などと思って共演したことは一度もない。結果的にそう見えてしまったことはあるかもしれないが、少なくともわたしにとって他人と共演するというのは、素材と共演することではない。いつだってその相手と、なるべく多くの時間をかけてどう共演していくべきかを検討する。それは時には何年もかかる地道な作業です。そのことの一端はユリイカ浜田真理子さんの私信、あるいは魚喃さんの手紙、細馬さんとの対談を読めばわかるはずです。(出会い頭の即興のセッションは、それとはまた別の話です)わたしは浜田真理子さんの声とか石川さんの笙を、あるいは知的障害者たちの演奏を、素材としてほしかったり利用したいのでは全然ありません。むしろそういうものを素材と考える考え方を嫌悪しているというのは細馬さんとの対談で実例つきではっきりと発言しています。素材なんて考え方は極端に言えばどうだっていい。そういう興味すらない。重要ななのは浜田真理子という音楽家がいて、石川高という音楽家がいて、その音楽にわたしが興味を持ち、浜田さんや石川さんもわたしに興味をもってくれて、もしかしたら一緒になにかやれるかもしれないと互いに思った・・・というそのことです。あるいは障害をもつ子供たちとひょんな切っ掛けで一緒に音楽をやることになった、そのことがまずは重要なんです。その結果がどういう音楽になるかというのは、やって見なければわからないことで、もしかしたらいい作品になるかもしれないし、全然うまくいかないかもしれないし。わたしはそうやっていつも音楽を作っていて、その限りにおいて「徹底的な他者=外部」などというものとの共演はありえません。共演者は単に「他者」であって、それ以上でも、それ以下でもない。「他者」とはいつまでたっても「他者」どうしでしかなく、ただ近く感じたり、遠く感じたりするだけのことです。「他者」がちがう文化を持ってるのは当たり前のことで、そんなものはだれとやろうがいつでも起こる問題です。そのことを的確に書いてくれているのは飴屋法水さんの文章です。
「他者」とどう向かっているのかの私自身の実例をウソ偽り無くつたえたのが細馬宏通さんとの対談です。少なくともあの対談を注意深く読めば吉村くんが提出したわたしへの疑問のいくつかのわたしからの回答がちゃんと書いてあるはずです。


あの1冊の中でさえ、吉村くんが書いたことと同じテーマが書かれている文章がいくつもあるのに、そのことに気付くことをせずに、「少なくとも私の読みたい「批評」はなかった。」などと書いていいのだろうか。たとえ意見が異なっていようと、かぶるテーマを書いているのに、それを読みもせずに、そういいきってしまう態度をわたしは気持ちよく思いません。