10年の軌跡 貧しい音楽

otomojamjam2007-11-22

今現在でているサウンド&レコーディングマガジンの横川理彦さんの連載コーナーでユリイカ大友良英特集のこと、若尾裕「音楽療法を考える」、そして大谷能生、初の評論集「貧しい音楽」について評を書いています。これを読んだら若尾先生の本が読みたくなった。大友本、大谷本についてもかなり的確なレビューになってます。さすが横川さん。しかし毎月3冊の書評の連載、本当に頭が下がる。これまでも横川さんの連載で知った本多数。書店で手にとってぜひご覧あれ。あ、ついでに書くと、来月発売のサンレコにはわたしのインタビューも出る予定。



ところでここに出てくる大谷能生著「貧しい音楽」には、ちょうど10年前、GROUND-ZEROを解散しI.S.O.をはじめた頃のわたしのインタビューが載っている。場所はGRID605の隣のビルに今もある喫茶店。当時のウソ偽りない赤裸々な心境を語っていって、今読むと恥ずかしくもあるけど、非常に面白い。オレ、あのとき考えていたことに、その後、真正面からちゃんと向かってたじゃん・・・などと思いながら読ませてもらいました。横川さんも書いているとおり、今から先の10年間にオレが取り組むであろうことのかなりはユリイカの細馬対談の中ででてきています。それは、別に障害のある人と音楽やる・・・という意味では全然なくて、音楽のつくり方というか、音楽への向かい方の根本的な話で、という意味です。

このことだけじゃなく、この大谷本、実に面白いなあ。今までこの辺のことを書いたものは日本ではあまりなかったと思うのですが、やっとSachiko Mや、秋山徹次、角田俊也なんかのことを正面から取り上げる本が出てきたのは嬉しいかぎり。音響的なものをめぐる議論では北里義之との激しくも興味深いやり取りも出ていて、この議論、大谷側だけでなく、北里側の文章もあわせて読んでいくと、ものすごく面白い。とはいうものの、かんじんの北里さんの文章、実は現時点ではミクシーの彼のブログでしか読むことが出来ない。なんというか、世離れしてるというか、彼、様々な事情で家からでることもままならず、音楽、出版業界ともほとんど関係することもなく、ひたすらブログに批評を載せているだけで、そうなると、大谷くんの議論だけが世間に届くことになるのもなんだよなあ・・・という思いと、あとは、その北里さんの日常生活に根ざした論点が非常に面白かったのもあって、余計なおせっかいかもと思いつつも、ミクシーで連載していた彼の音響をめぐる批評と、高柳昌行への論考を本にすることに一肌脱ぐことにし、青土社に話を持っていった。
正直にいえば、母の介護をしながら崩壊しかけた木造の家屋で、毎日休むことなく、音響や高柳をめくる論考を書き続けている北里さん自身の暮らしのことまで赤裸々に書いてる文章にココロを動かされたのが一番の動機。浪花節と笑わば笑え!
でも、別に貧乏で大変だから感動したのではない。自分自身の日常という立脚点を失った批評みたいなもんに、オレはココロを動かされない。命をかけてなにかをやるというのはこういうことだ・・・という北里さんの姿勢と、そこから生まれる身のある批評に感動したのだ。
あと何年生きれるのか、何年音楽をやれるのだろうか、そんなことを考え出すと、体をはっているものの生の輝きが逆に見えてくる。北里さんの文章は、そういう文章でもある。年内には「サウンド・アナトミア--高柳昌行の探究と音響の起源--」のタイトルで青土社から刊行される予定。大谷能生の本、高柳昌行の奇書(北里さんの評にならい、あえてそう書かせていただく)「汎音楽論集」とともに、ぜひご精読あれ。



なを、大谷本、北里本、あるいは杉本拓の最近のテクストの中でも度々でてくるわたしのテクスト「聴く」と題されたネットやplanB通信での連載、様々な過去の文章や新たに書かれた文章、先日京都でやった細馬宏通とのかな〜り長い対談、それに聞き書き等を加えた本の制作も現在大詰めを迎えております。他人の本出すのにばっか動いてないで、自分のこともやれよ・・・って話ですが、このままいけば、年内にはほぼ完成、大物編集者S氏の頑張りにもよりますが、来年の春くらいには、初の大友本も刊行できると思います。でますよね、Sさん、たのんまっせ!
本の骨格になるのは、聴取、即興、ジャズ、歌、ノイズ、映画、そして名付けようもない様々な試み。それこそ大谷本のインタビューにでてくるようなテーマに10年かけて挑んできた試行錯誤の軌跡と、それを踏まえた現在みたいな感じになると思います。今もその原稿を手直ししているところ。かなり読み応えあるものになるはず。



噂では佐々木敦のこの辺について書かれた本、岸野雄一の第一評論集の出版も準備されているとのこと。アカデミズムとも、浮かれた音楽業界とも無縁に四半世紀にわたる活動をしてきた人たちの活動が、こうして、少しづつでも形になってくのは嬉しいことだ。