女と男、男と女  

otomojamjam2005-05-10

今やっている映画「闇打つ心臓」は男と女についての映画、恋愛についての映画だ。とはいえ甘い話はまったく出てこない。男と女が結ばれた後にやってくる暗闇についての話でもある。実際に四半世紀前に同じキャストでとられた8ミリフィルムのなかの若い男女(内藤剛志室井滋)が、今のデジタルビデオのなかでは、ちょうどわたしのような年齢の中年の男女になり、さらにそこに、今現在20代の同じ境遇の男女がからんでくる。実際の映像は8ミリのテクスチャーとDVのテクスチャーが激しく行きかう。多分長崎俊一監督の最高傑作になるのではなかろうか。素晴らしい映画になりそうだ。音楽を作りながら、この今までにない、しかし確実にATGから流れる日本の映画の系譜を垣間見せるこの作品にかかわれることを本当に幸せに思っている。
この不思議な映像を前に、いまだに男のことも女のことも理解できず、人生すらもちゃんと出来ないオレが、頭をなやませながら音楽を作っている。しかし、理解できないと書いておきながら、でも、本当は痛いくらいそういう世界を経験してきていて、そんなことは本当は知っているくせに理解できないことにしておいたほうが楽だと思っている大人の自分もいたりする。オレはもう充分に青年ではない。それは、ちょうど浜田真理子の「純愛」を演奏しながら、オレにこれを演奏する資格があるのかと、ふと頭をかすめつつ、でも平気な顔をして演奏しているのにも似ている。大人になるってのはずるくなることでもある。そんなことをめずらしく考えながら、黙々と作曲。
おもいきりさわやかなコードと、底なしの暗いビート。作る側は泣きも笑いもしない。泣いたり笑ったりしてはいけないのだ。自分に酔った作品は下品になる。オレに出来るのは、ココロを動かすことではなく、ただ映像と音のテクスチャーを前にがむしゃらに出来ることをするだけだ。そうでなくてはいい作品は出来ない。