CORE ANODE レスポンス

otomojamjam2005-09-01

昨日のCORE ANODEのライブ、いろいろな反響、いただいています。いくつかアップさせてください。興味深いのは2セット目の40分間の轟音が終わったあとの1分間。これがなんなのか、ひっかかり続けています。

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佐々木敦さんからのメール

第二部のコア・アノード、素晴らしかったです!
すごく興奮しました。音が鳴っている間中、sublimeを直截的に感じてました。ある意味、過剰にロックだった。
でも一番スゴかったのは、最後に演奏がすべて終わった瞬間です、あれは静寂が戻ってきたのでも、残響というものでもなくて、何と言うか、音はもう終わっているのに、聴こえる、というモノが、まだそこに「在る」、という感じで、ひたすら戦慄しました。

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ある人の日記から部分を転載

「G i I K y o A m」
 大友さんは社会的な発言の多いアーティストです。以前このような発言をされています。
「今後も音楽が社会に対して何かを主張できるとしたら、それは見せかけの過激さや反社会性、あるいは政治への直接参加などではなく、リスナーと音楽家との関係性にどれだけラディカルでありえるかの鋭利な視点しかない。」
 過激な作品といえば、「日本国憲法」の朗読をズタズタにカットアップした作品もありましたが、この作品もタイトルだけを見るとずいぶん過激で、一見、先に挙げた発言と矛盾しているように思えます。(「君が代」のアナグラムになっています。)

 しかし、実際に聞いてみると、これが、過激でもなんでもない。聴衆の前後左右から、木の葉の落ちるような小さな音が聞こえるだけの作品なのです。
 「君が代」に使用された音を再構成して演奏されるのだそうですが、コード、音という小さな単位に解体され、再構築されてしまった後は、もはやそれは「君が代」であったことはわからなくなります。聴衆は音そのものを聞くしかできません。

 それが「君が代」であろうと、なかろうと、聞こえるものは、本来「音」にすぎないのです。
(中略)
「CORE ANODE」

円形の布陣の思想を過激に推し進めたのが、この「CORE ANODE」だと思いました。巨大な音で円の中いっぱいに埋め尽くされる感じはとても空間的だと思いました。従来のパワーミュージックのように音の塊に耳がふさがれ、そのダイナミズミを味わう、というよりは、音の洪水の中でもなお、多くの音が一つ一つ鳴っていることを、こころの中で卵を立てるように、耳をすまして聞くのです。
 それは小さな音の余韻が消え行くまで耳をすますことと、実は似ています。
 音楽を聞くことをいったん保留し、音そのものに耳をすます聞き方は、高度に意味づけされた文化においては極めてラジカルな提唱だと思います。


 そのような経験を経た耳からすると、──ぼくは国の歌を強制することは、例えば、国の料理、国飯を強制するのと似ているんだな、と気付きました。

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アメヤさんのmixiの日記から抜粋

まず、かなり静かな?曲2曲。(1曲目はバングント展でソロでやってくれた曲をさらに解体したような・・)

10人のまったく異なるバラバラな音色が・・PAを通さないバラバラな各人のアンプ位置から発せられ・・客それぞれの位置で折り重なっていくような構造。この10人のバランスがすごくいい。かぎりなく意志的でない響きを生産する意志、の奇妙なアンサンブル?10人別位置だからこその響きだろう。

開始から少し遅れて・・自分の耳の中で、空調の音、別階から漏れてくるライブの音、コップの中の氷の音などが、どんどん混ざり始め・・・・演奏することと、しないこと・・個人の意志と、無意志、音があることと、無いこと、が・・・

響き、としか呼びようのないものの中で、まったく等価になっていくような不思議な感覚。

たぶん緻密なルールと・・どっちだっていいやというような心地よい投げやり感の混在・・・その、なにやら奇妙なすがすがしさのなかで、わくわくしはじめる自分の耳が・・・そして2曲目にいたり、どんどん自分の気持ちがザワザワしてくることに気づく。

それは3曲目の、かなり騒々しい?ともいえる曲でも同じだった。ドラムも加わり・・強烈なカットイン、カットオフで始まり・終わった、ものすごい演奏なのだが・・・

カットイン前と演奏中とカットアウト後・・それがあんなに明確なはずなのに、それがなぜか明確ではなく・・

演奏中に、静寂・・無音・・としか思えない瞬間が、なんども訪れるのだ。んんん?なんだこれは?なんでこんなに静かなのだ?

ここでも、奏音と騒音と喪音・・が、まったく等価になるような変な感じ・・。それが4:6の対比とかではないのだ。4:6、ならあっというまに、それは静か、かうるさいの、どちらかに四捨五入されてしまうだろう。

現実には完全な無音はない。ということは無音に対比されるような完全な有音も無い。じつは、なんとなく音は絶えず在る。それが静かになったりうるさくなったりするのは、人間のもつ四捨五入の作用だろう。

四捨五入は「有音」と「無音」だけに限らない・・・「緻密な計画」と「つい」・・「不自由な演奏」と「自由な演奏」・・「新しい音」と「古い音」・・・

それらたくさんの音にまつわる四捨五入、をかたくなに拒んだ音のかたまり、に出会うと、なるほど、こんなふうに、それらがまったく等価な音の響きがあらわれたりするんだ・・・。

そして最後のカットアウト後に残響した・・・あれは何だったのだろう・・・あれは、音・・・なのだろうか?

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・・・・・・・わたしも、そのことずっと気になっています。




本日の灰野さん 工藤さんとの共演については、また明日。