その場限りで消えてしまう即興演奏と、脈々と続く日常と
昨夜26日の月曜はアコギとエレクトリックによるギターソロのセット。
日本以外でアコースティックのギターを演奏するのは初めて。なにしろギターを2つ以上海外に運ぶとなると飛行機の超過料金や運搬の手はずだけでもえらいことになるので、考えたこともなかった。今回は加藤英樹のもってる1929年製のギブソンL4という丸穴なのにアーチトップというかわったギターを借りて演奏(加藤君ありがとう)。いつも使っている59年製の同じギブソンのLG1とはまったくちがうキャラ。鈍い倍音と、朴訥とした音。このキャラの違いがいつもとは違う演奏を引き出してくれるところがあって、自分でも非常にいい演奏ができたと思う。楽器の響きが音楽を決定してくれる。あと、なによりストーンにきているお客さんが、びっくりするくらいの集中度で静かに聴いてくれるのが、こちらの演奏の密度をより高めてくれる。こういう状況になると、古い建物のきしむ音、近くをはしるハウストンストリートの車の音、全てが味方になってくれる。まるでオフサイトで演奏しているような集中度と静けさ。アメリカでこんな形のコンサートができたのはこれが初めてのような気がする。
ストーンは広さにして20坪もないかな。席は40席くらい、詰めても多分80人もはいれない広さ、看板もないし、飲み物も出さない。宣伝すらしていない。入場料は全てミュージシャンにバック。従業員は毎日受け付けをやるボランティアの若いミュージシャンが1人のみ。楽器も周辺に住むミュージシャンが皆で持ち寄ってくれている。運営しているのはジョン・ゾーン。家賃をはらうために時々ベネフィットコンサートを彼自らがやっている。はじまったのは今年の4月。オレはこんなことをやってしまう、やれてしまうゾーンという音楽家を心底尊敬している。一朝一夕でやれるもんじゃない。いつも思うけど、こういうことと、作曲したり、演奏したり、レーベルを運営したるすることってイコール、まったく同じ意味で創作行為だと思っていて、結局はこういう生き方とか、音楽をどう提供するか・・・というようなことそのものが表現だったり作品(いや、別にそういうものでなくてもいいのだが)だと思うからだ。よく音楽における政治とかについて質問されること多いけど、そういうのは、口先や歌詞であらわすものではなくて、あるいはたまにデモに参加したりってことではなくて(それもいいけど)、でも、こうした具体的な日常の行為でしか示せないとオレは思っていて、そういうことを全人生を通じて最初にオレにしめしてくれたのは、いうまでもないデレク・ベイリーだったのだ。彼の即興演奏のあり方は、彼の生き方そのものだったと思う。ゾーンは間違いなく、そういったものを継承しているなって、こういう活動を見ていると思えるのだ。
ベイリーはあの世にいってしまったけど、彼の生き方は、確実にこういう形で継承されている。
人間が残せるのはDNA(子孫)だけじゃなくて、建物とか作品とかだけでもなくて、文化とかアートといわれてくくられるようなものだけでもなくて、もっとこうした形にならない脈々を受け継がれる日常にこそ、なにか大切なものがあるな・・・・って思う次第。