CO2映画祭受賞式に寄せたコメント

「グランプリに値する作品なし!」




今回、あえて、わたしは最優秀作品となるシネアスト大阪市長賞は選びませんでした。それは、それぞれの監督に将来を期待する・・・みたいな生易しいことを言いたいためではありません。もちろん期待はしますが、学校じゃないわけですしわたしは先生じゃありませんから、そんな優しいことは言いません。


なぜ今回グランプリを選ばなかったのか。それは、まず第一に税金を使っていながらこの程度の作品しか作れなかったみなさんへの不満をはっきりと伝えたかったからです。このことは、単に、個々の監督や作品の問題というだけではなく、CO2映画祭に対する厳しい意見も含みます。



助成金を受ける、助成金を受けとって作品をつくる。文化に行政の予算を使う。
もちろん悪いことではありません。映画に行政の予算を使うことも、否定はしません。
それらは、過去に様々な人たちがなんらかの努力をし勝ち取ってきた権利でもあるわけで、事実それによって素晴らしい作品も生まれているわけですから。それだけに、それを受け取る以上は、それがたとえ50万であろうと厳しい責任が生じる・・・わたし個人はそういうふうに税金を受け取るということを考えています。
映画であれ、道路を作る仕事であれ、医療であれ、その意味では、まったく同じだと思っています。ただし、道路や医療と違って、映画には、わかりやすい実用性やら、実際に人の命を助けることができる・・・といったような明確なものさしがあるわけではありません。
税金だからといって、誰にでも楽しめるような公共性のある作品をつくれとか、娯楽作品を作れといっているのでも、もちろんありません。その手の作品は、税金ではなく、むしろ営利を目的とした企業作品が十分その役目を負ってるわけですから。
わたしがここで言ってる厳しい責任とは、本来なら個人の財力では作れないような作品を作る機会を与えてもらったことに対する責任です。そういう制度を多くの努力をはらいながらつくってきた行政やCO2実行委員会に対する責任と敬意と礼節の問題、そして税金をつかうことへの仁義の問題です。
せっかくこんな恵まれた機会をもらっていながら、なんで、もっと映画をつくるということを突き詰めることができなかったのかと、この5作品を見てわたしは思ってしまった・・・ということにつきます。




なにが不満であったか、具体的な内容について書きます。
まず、わたしの専門領域である音と映像の関係に関しては、これはと思えるものがひとつもな
かったことです。それは単に個々の音楽なり音の録音の質といった問題ではなく、音と映像の関係が作品内容にまで及ぶ形で作られているようにはわたしには思えなかったということです。
もちろん作品の中には十分に合格点の音がついているものもあります。でも、わたしが期待したのは合格点ではなく、わたしを驚かしてくれるようなものでした。でも残念ながら、そこまでのものはありませんでした。


助成金が出ているとはいえ、映画をつくるには非常に低予算ですし、そんな中でクオリティの高い音や音楽をつくるのが難しいのは、わたしも理解しています。でも、わたしが聴きたいのは、プロのようなクオリティや上手な技術などではなく、なんでこの絵にこの音なのかという切実な関係の中から生まれてくる言葉にしがたい何かです。それがない映画をわたしは楽しめません。
この点については、わたしは今回、残念ながらなにも発見できませんでした。それどころか、むしろ本当にこれでいいの・・・と思えるところが多々あり、がっかりしたというのが正直な感想です。


普段から、本当に耳をすまして音を聴いてきてるのでしょうか? 映画の音に今までどれだけ向き合ってきているのでしょうか? あるいは音楽というものに今までどれだけ向き合ってきているのでしょうか? もしかしたらmp3の音源でヘッドフォンをつかって音楽を聴くことが大部分の音楽体験になっていないでしょうか? もちろんただ楽しむだけならそれでもかまいませんが、少なくとも、入場料をとって人になにかを見せ聴かせるのに、本当にこんな貧弱なレベルでいいのでしょうか? 音のつけかたひとつで、あるいは音楽の扱い方ひとつで、映像はまったく
別のものになります。違う世界の扉が開く・・・と言ってもいいくらい、それは映画にとって重要なことですし、僕らにとっても、まだまだ開拓の余地のあるところでもあります。ここを切り開かなくてどうするんですか?


映像がどう他者と出会うのか、映画とはそういうものだと思います。見てる人になにをどう伝えたいのか・・・音のつけ方には、そのことが具体的に現れます。映像にとって最初に向き合う他者は音であると言い換えてもいいくらいです。したがって、音との向き合い方は、その映像が、映像の外の世界とどう向き合っているかを象徴している・・・わたしはそう考えています。
そのことを心して、次の作品を作ってほしい、そう思います。


もうひとつ、トラウマや心の傷の描き方についての不満もあります。
これについては、身も蓋もないことを言ってしまえば、もっと様々な経験をして大人になったうえで、そうしたものを描いてほしいです。人生そんなもんじゃない・・・そう突っ込みたくなるところ満載すぎます。個人のトラウマに限らず、社会の抱える傷にしろなんにしろ、そうしたものに対峙するにあたって、これまでの映画が見せてくれたある種のスタイリッシュな方法でそうした問題を描くということに、わたし個人はなんの可能性も見出せません。なぜならすでにスタイルとして定着してる方法というのは結局現実と向き合うことを回避してしまうからです。不器用でもいいから現実と向き合う方法を映画の中で新たに見出す努力をすべきです。
そうやって自力で大人になる方法、あるいはならない方法を模索するべきです。
この問題は、さきほども言った、映像と音の対峙の仕方にもそのままつながる問題です。このことは、単に今回の作品についてだけでなく、今の映画界全般、いや音楽界も含めての、現状に対するわたしの大きな不満でもあり、私自身への大きな宿題でもあります。
このことをとことん考えれば、税金を使って作品をつくるという意味もおのずと見えてくるはずです。


もしかしたら「ゴリラの嘘」は、そうした映画のスタイリッシュさがもつ嘘に対する挑戦だったのかもしれません。そこの志(こころざし)は面白いと思いました。いろいろな設定も主演を演じた監督の個性も面白かったのですが、しかし、こうしたどんでん返しだけでは、ミイラ取りがミイラ、結局は映画というスタイルの枠の中にはまってしまっているように思えて、本当に突き破れるパワーにはなっていないと思います。
監督がどこを目指しているのかにもよりますが、わたしはどうせやるなら映画という構造を食い破るくらいの毒をもって涙と笑いに対峙すべき・・・そう思います。



「どんずまり便器」については、仮に似たようなトラウマを抱えた女性がこの映画を見たとして、救われるだろうか・・・という部分で、わたしは大きな疑問を感じました。もちろん映画は「救い」のためにあるわけではありませんから、その部分だけで評価どうこうを言うのは間違っていると思います。それでも、性を含む生の描き方にもっと深みをもたせなければ、少なくともいくつもの生死と、いくつもの性と向き合ってきている大人を説得できる作品にはならないと思います。
人生はもっと厳しい。と同時に人生は、もっと、もっと豊かです。はかりしれないくらい、把握なんか出来ないくらい豊かで、それは同時に把握なんか出来ないくらい悲しくもありです。映画は人生を把握するのではなく、把握できない豊かさや悲しさ、ときによろこびを垣間見せる
からこそ素敵なわけで、そこに向かってほしい。
とはいえ、ある種の映像の力の萌芽のようなものが作品の随所に見え隠れしているのも事実で、そこがこの先どうなっていくのか興味あります。


やくたたず」は、実は審査会の最中にいったんは候補にあがった作品でもあります。男の子が大人になるのは簡単なことではありません。ここに出てくる3人の姿は、わたしにも経験のある風景であり、特に地方都市に育った高校生のあるリアルな姿を描いているとは思います。そこまではいいと思うのです。でも、わたしが本当に見たいのはその先です。この映画だけの問題ではなく、今回の候補になった作品全般に言えることですが、大人へのなりかた、あるいはなれなささを描く中で、大人という概念への問い直し、うらがえせば子供やガキという概念の問い直しをもっと、もっとするべきです。
どうも現状はサブカルチャーが生まれた20世紀後半のスタイルの焼き直しのままですが、それだけでは描けないない切実ななにかが今の現実にはあって、そこにこそ食い込まなくていったいなんの意味があるのか・・・くらいにわたしは思っています。
少なくともこの作品は、切実ななにかがあることを感じさせているだけに、その先が見えないことが残念です。


「C.J.シンプソンはきっとうまくやる」の田中監督とは前日の打ち上げでたまたま同席してしまったので、しかも、いい奴じゃんと不覚にも思ってしまったので、ここは親愛の情もこめて遠慮なく書かせてもらいます。
「税金もらってあんな作品つくるな! はっきり言って今の税金まみれの糞アート界の若造の甘えた作品をみているようで不愉快! どうしてもこういう作品を作りたければ、こんなとこに応募して大人にコビ売ってないで自費でつくれ! 完全自主制作で勝負せい!」
さらにCO2は、この作品に税金を投入した責任を感じるべきです。
こういう奴には見向きもしない・・・それが大人としての礼儀というものです。じゃないともっと作品が腐る。



「VIOLENCE PM」だけがいくつかの賞で選ばれていますが、それはこの作品だけが飛びぬけているというよりは、ほかに選ぶものがなかった・・・という部分があることも付け加えておきます。それでもなを、わたしはこの作品のいくつかの部分が好きです。特に冒頭の子供たちのシーンには、ものすごく期待させられました。子供たちの生き生きとした表情を撮った石原監督と、あるオーラを放っていた主演の野中さんやほかに出演のみなさんに対する激励賞である・・・そうわたしは思っています。
これも監督が何をもとめてるかによるので一概にはいえませんが、わたしは石原監督にはあの冒頭の駄菓子屋のようなおもいっきり生き生きとした子供たちを今の視点で描く映画を作ってほしいなあと思います。子供を描くというのは、大人がつくった社会を描くということでもありますから。




自分でも冷や汗が出るくらい、思いっきりえらそうなことを書きました。もちろん、ここでは
自分が20代のころ作ってたもんがどんだけのもんだったかなんてことは無視してます。言ったことが、そのまま諸刃の剣となり自分に返ってくることも覚悟の上です。


ちなみに、わたしは今までの人生で一度だけ、こういったコンペに応募したことがあります。20代終わりのころのことで、武満徹作曲賞みたいな名前だったと思います。もちろんはしにも棒にもかからず落選でした。ただそのとき、あとでひとづてにこっそりと武満さんからのメッセージがとどきました。
「面白いけど、作曲という枠には入らないからはずしたよ」
それが励みにもなり、またきっかけとなり、わたしは作曲コンペのようなものに応募するのはやめにしました。すでに大人たちの作った場所に参入するのではなく、自分で自分の音楽をやる場をつくろうと思ったからです。


CO2の面白いところは、すでに大人たちがつくった場ではなく、むしろ場のないコドモ達が大人の作った場ではない場所を自分たちで作ろうとしたことにあると思います。そのこころざしや、あっぱれ! すばらしいと思います。すでにある映画祭なんか糞くらえです。
でも、だったら、これまでの映画の殻をやぶるくらいのものを目指すべきです。単に映画界の登竜門なんかじゃなく、審査委員が大喧嘩になるくらいの根本的な問題作を持ち込むべきです。それはこれまでの基準の問題作とかではなく、そうしなければ描けない・・・という切実なレベルの問題作のことです。
もしも本当にそんな問題作が出てきたらCO2は解体の危機に瀕するかもしれません。でもそれこそがCO2の望んでいることじゃないでしょうか。ちがいますかね西尾さん。少なくとも決定打がなくて解体の危機になるんじゃ情けない。来年以降、CO2に応募し作品を作ろうと思ってる人は、もっとこころざしを高くもってほしい。もっともっと映像を撮るということ、そこには音がついてるのだということを掘り下げていろいろな角度から勉強してほしい。しかもそれは単に知識だけじゃなく、実践の現場で鍛えるべき。そう思います。そしてCO2は、そうした作品をつくるための制作援助の方法も検討していくべきだと思います。


長くなりましたが、もうひとつだけ大切なことを。
さんざん税金をつかうことについて言って来ましたが、財政が苦しい中で大阪市がこの企画に税金を投入していることは世界に誇れることだと、本当に思っています。
ここから出ている横浜聡子監督がいい例ですが、ほかの映画祭では絶対にでてこないような才能を輩出する可能性をこの映画祭は秘めているからです。こんなことは東京では絶対に不可能です。大阪だからこそ出来ること、そう確信を持って思います。めちゃくちゃ言ってきましたが、今回の監督たちが将来どう化けるかだって誰にも予想がつきません。そうした自由度の高い映画祭を支援すること、そして、今後も支援を続けることは、行政の重要な使命であり、また世界に誇ってもいい事業だと、一応これでも海外で長年にわたり評価を受けている音楽家のわたしが
胸をはって言いたい。こんな映画際があることはすごいことです。
大阪市民の皆さんはこの映画祭を支援していることを誇りに思うべきです。
これからもぜひこれまで以上に支援してあげてください。今回のクランプリ作品なしの試練は、監督たちだけではなく、CO2そのものも大きく成長するきっかけになるはずです。
その意味をこめての「グランプリ作なし」です。
市長をはじめ行政のみなさんにはそのことを理解いただければと思います。



最後に。
今回はこれだけの決断をしたのに授賞式に出れないこと本当に悔やまれます。残念です。出来ればその場にいて自分自身の口で監督たちに直接会って伝えたかった。で、一緒に打ち上げに行きたかった。その場にいる若松孝二監督や洞口依子さんがうらやましいです。


いつの日か
「あのとき大友にぼろかすにいわれたけど、あいつは見る目がなかった」と監督のみなさんや実行委員のみなさんから真顔で言われることを期待しております。



2010年3月3日 ひな祭りの日に  CO2審査員 映画音楽家 大友良英