厄払いとグッドなニュース

otomojamjam2007-12-22

ONJOのアンダーカレント-地下展コンサート-ご来場の皆様ありがとうございました。
1st setは、今いちばんやりたいことのひとつで、これを展示の形式に発展させたものを来年のYCAMでやれればという思いもあっての試みでもありました。こんな無茶な試みをこころよく受け入れてくれた未来館や企画のボストークの皆さんに、まずは感謝を伝えたいです。ありがとうございました。わたし自身の素朴な感想は、面白くて面白くて、本当なら自分はパーフォーマーではなく観客で参加したいなと思ったのと、もっともっと長くやっていたいなって感じだったんですけど、見に来てくださった皆さんはどう思ってくれてたのかな。長くというのは2時間とか3時間とかではなく、1日中みたいなイメージです。
こうしたことの最初の試みは2年半前の飴屋法水さんの「バ  ング  ント展」でやった「ビ  ク ンオー ス ラ」でした。わたしが用意するのは、場の条件とメンバーで、あとはその場を利用して各自がサバイバルするように即興演奏を行う・・・というようなイメージがもとにあります。通常の即興演奏と大きく違うのは、場の条件の部分です。わたしは、いろいろなところで起こる事をなるべく観察したいなという思いもあって、ついついラジオなんかをもってうろうろしてしまいました。通常の音楽のように1曲、2曲って単位のものでもなく、ソロが沢山あるようにも見えるけど、でも単にソロではなく、互いがどこかで関連しているようでもあり、全体がぼや〜んとポリフォニーのようでもあり、しかしだれにも全体は聴くことが出来ず、なにを聴くかは、偶然の縁と聴く側の積極的な関与にもかかわってる・・・みたいな感じかな。まだ漠然としていますが、この先この作品がどういうものになっていくのか、どう展示のかたちに昇華させていくのか、どこをクローズアップし、どこを捨てていくのか。これはわたし自身の宿題でもあります。
2nd setのほうは、もう少し通常のライブに近づけつつ、しかし、セットアップは互いの音が簡単には聴けないくらい大きく離して、さらには通常のモニターもつかわずに・・・という、10月の京都公演で試した方向を何人かのゲストとともに共有するようなセットをイメージしていました。京都公演では、それをほぼ即興に近い形でやったのですが、昨日はある程度曲をやることでの試み。これが吉とでたか凶とでたか、これも見に来てくれた人たちがどう聴いてくださったのか興味あるところ。なにしろステージ上では、全体像が把握しにくいのは1st setも2nd setも同様なのだ。京都では成功した距離あるセッティングという方法が、従来の曲をやる際に、あいまいになってしまったようにわたしにはおもえて、この辺は大きな課題を残したかもしれません。とはいえ、メンバー各自の演奏は本当にすばらしかった、そう思います。このへんのことを含め、第2期ONJOにとって、この先乗り越えなくてはいけない課題は沢山あるぞ。というか乗り越える過程こそがわたしが考えてるアンサンブルの魅力でもあるのです。3月の欧州ツアーや4月21日の東京公演をサバイバルしていくなかで、この先ONJOがどういうものになっていくのか、なにを発見していくのか、そんなことを漠然と考えながら、しかし、実際にはほとんど下らない話に終始しつつ、この日は新橋の韓国料理屋でチャプチェや味噌チゲをつっつきつつ、例によって、オレはノンアルコールで、みなはアルコールで深夜遅くまで打ち上げ。かんぱ〜い。

写真は1st setで演奏中の毛利悠子、写真とりわすれたので、どなたかのブログから写真を勝手に拝借してしまいました。すいません。


昨日はライトをつけたまま車をとめていてバッテリーがあがってしまったりと、まあ、生来のドジが全開でもあったのですが、そんなんが厄落としになったのか、グッドなニュースも舞い込んできました。


まずは平成19年度(第62回)文化庁「芸術祭」ってのがあるそうで、これの【テレビ部門】ドラマの部の優秀賞に『鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜』が選ばれました。ドラマが賞をとってもオレになにか恩恵があるわけではないし、ましてや文化庁も「芸術祭」とかもどうでもいいけど、でも、このドラマがどんだけ真摯な努力の末につくられたかを知ってるだけに、スタッフみながよろこぶであろうことが、本当にうれしい。今年前半は胆嚢摘出手術と水木しげるのドラマにあけくれた感のあるオレにとっても、ドラマがこういう形で評価をうけるのは素直にうれしい。ドラマ製作にかかわったみなさん、本当におめでとう。ちなみにデレクターの柳川強監督も胆嚢がありません。これからは胆嚢がないない人類の時代なのだ(笑



え〜もうひとつグッドな本当にうれしいニュースは、ビザの問題で苦労していた友人にやっと日本のビザがおりったってニュース。うれしい。人間は住みたいところに住めばいい。オレはそう思うけどね。日本人以外は日本に住みにくくしよう・・・なんて決めやがったのはどこのどいつだ。別に誰の土地でもねえじゃねえか。勝手に人に境界つけるんじゃねえ〜よ。 よかったねOさん。ってことであさってのPITINNは、ちょいとしたゲストもむかえつつ、ビザゲットパーティもかねよう。





まだまだある。え〜と、来年の夏になるけど、マルセイユで、北京のYan Jun、ソウルのRyu Hangkil、シンガポールのYuen Chee Wai、それにオレの4人でカルテトのコンサートが出来そうなのだ。欧州のように、アジア各国のミュージシャンが自由に行きかいながら音楽を作る環境になるには、僕等とは別に政治や経済にかかわるまだまだ難しい課題もあるけれど、少なくとも個々人のミュージシャンの風通しはよくってきていて、そのことにいちはやく欧州のオーガナイザーが気付いてくれて、声をかけてくれる、そのことがうれしいのだ。




それから、某出版社からあるオファーも。大物編集者S氏がつくってるのとは別のもの。これについてはそのうち書けると思います。



さらに、他人事だけどうれしい、ほんとにうれしい出来事。やっとと言ってもいい。今年50歳になった北里義之の処女評論集『サウンド・アナトミア』(青土社)が送られてきたのだ。多分書店にも、もう出ているころだ。副題に「高柳昌行の探究と音響の起源」とあるとおり、高柳昌行Sachiko M、中村としまる・・・わたしにとっては、音楽を考える上で欠かすことの出来ない、というか、もうわたしの音楽を形成するなかで最重要な位置をしめる音楽家たちが正面から論じられている。でも、そのこと以上に、この本が書かれた過程をリアルタイムでみてきてる身としては、感慨深い出版でもあるのだ。
ここでは、大谷能生佐々木敦、清水俊彦、高柳昌行等の文章も批評の俎上にあがっていて、ここから豊かな深みのある議論がおこることも期待せずにはいられない。今年出た高柳昌行『汎音楽論集』のアンサー本にもなっていて、この界隈の音楽に興味がある人にとっては、大谷能生『貧しい音楽』、佐々木敦のいくつかの著作とともに必読の書だとおもうけどね。あと、もうひとつ重要なのは、単に音楽の本と言うことではなく、これは母を介護する日常の中で、そのこともあけすけに書いた本でもあって、介護と音楽という、北里の日常の2つの軸が、思わぬ地平を切り開いているようにも思える本で、音楽書という以上に思想書の意味もあると思うのだ。ついでに言えば、この本で度々登場するSachiko Mの新作『salon de sachiko』も発売になってる。これ、とんでもない名作だと思うけどね。北里本についてはあらためて書く。